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<映画紹介>
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『イップ・マン 継承』
ストーリーは、ブルース・リーが唯一師と仰いだと言われる中国武術界のレジェンドであるイップ・マンが、香港に巣食う悪と戦って町の平和を守るというもの。じつはこの作品、ドニー・イェン主演でシリーズになっていて、今回は3作目。ですが、話はそれぞれ完結しているので、前作の内容を知らずにいきなり『イップ・マン 継承』を観ても大丈夫。でも、香港好きならこの『イップ・マン 継承』を観れば、必ず1作目の『イップ・マン 序章』、2作目の『イップ・マン 葉問』も観たくなるはず。50歳を過ぎているとは思えないドニー・イェンのキレのあるアクションも圧巻です。 そして、今回は夫婦愛も大きなテーマとなっていて、イップ・マンと妻の心の機微が丁寧に表現され、シリーズの中でももっとも深みのある仕上がりになっています。それに加えて、画面に映る香港的な小物にこだわり抜いているので、アクション映画に興味なしという人にも観ていただける仕上がりになっています。あちこちに散りばめられた香港らしい「あるある」を探すのも、この映画の楽しみです。僕はそれが気になって、4回も試写を観てしまいました。 冒頭のシーンは、イップ・マンが中国武術の詠春拳を教える武館から始まります。ここにはブルース・リーが「弟子にしてくれ」と尋ねて来るのですが、それはさて置き、この武館が古い建物の中にあって、窓の建具やタイル張りの床が、オールド香港好きな人の胸を高鳴らせます。 香港通であれば、この武館を見て油麻地(ヤウマティ)の美都餐室(メイドウツァンサッ)を思い出すことでしょう。緑色に塗られた鉄製の窓の建具や、ブラインドがかけられた天井までの大きな窓は美都餐室とそっくりです。映画の時代設定は1959年であり、美都餐室が建てられたのは1949年なので、時代的にも合致します。風情ある香港の低層階のビルの多くは、この美都餐室と同様に戦後から1960年代にかけて建てられたものです。 イップ・マンの住まいも同じような古い建物にあります。住居なのに床がタイル張りで、室内の戸に使われているのは凹凸の模様入りの板ガラス。部屋の狭さを補うために、室内にロフト式の物置きが設けられているところなどは、とても香港的です。唐楼(トンラウ)と呼ばれるこうした共同住宅はじつにノスタルジックで、香港人にとっても特別な存在であるため、現在は古い唐楼をリノベーションしてホテルにしているところもあります。 模様ガラスは昔のおしゃれ住宅の定番素材。ニキズで香港の家庭料理を教えるジャニタさんのご実家にも、模様ガラスが使われていたそうです。 このイップ・マンの部屋は、ほかにも香港迷を萌えさせる仕掛けが山盛りです。台所にはさりげなく吊るされているみかんの皮が見えます。香港では陳皮を自作する家庭も少なくありませんが、カンフー・ムービーであるのにこんな些末な小物まで用意したということに感動します。ジャニタさんも「これは香港らしい!」と着目してました。 玄関脇の壁に掛けられている紙袋も、関心ポイントのひとつです。「泰昌士多」と書かれていて、香港式エッグタルトの蛋撻(タンタァ)で有名な泰昌餅家(タイチョンベンガー)のものではなかろうかと推測されます。士多(シードー)とは小規模なグロッサリーストアのことなのですが、泰昌餅家は1945年創業で当時すでに営業していて、映画の時代には蛋撻などのベイクドスイーツ以外にも様々な食品を扱う士多であった可能性も。こうした紙袋も、映画ではわざわざ小道具として制作しているので、目につく物にはそれなりの意味がある場合が多いのです。老婆餅の老舗である榮華餅家や、漢方薬店の馬百良など実在する店の看板もちらりと映るので、香港のおばあちゃんたちがこの紙袋を見ると、「あー、昔の袋だわ」と懐かしい気持ちになったりするのかもしれません。 また、イップ・マンの家の窓の外には臘肉(ラーロウ)が干してあって、「そこまでやるか」とわくわくします。臘肉とは甘じょっぱく下味をつけた豚バラ肉を干して作る広東風のベーコン。気温が低く空気が乾燥している旧暦の臘月(現在の1月)に作られることから、臘肉という名前がついたと言われています。だから、香港マニアなら「このエピソードは臘肉を干しているから1月ね」とわかるはず。さらに、日本に比べたら季節感は薄いものの、この前後のシーンで女性がチャイナドレスの上にカーディガンを羽織っているのも、「臘肉の季節だったからね」と納得できることでしょう。 そうそう、チャイナドレスという呼び方は日本が勝手に作ったもので、香港では旗袍(チーパオ)と言います。旗袍は妻が着ている襟の高いものが正式らしいです。衣服で言うと、ジャニタさんが注目したのは警察の制服。コロニアルな半ズボンの制服を着た警官隊が登場するのですが、これはイギリスが派遣した軍隊に倣ったもので、70年代まで採用されていたそうです。で、この制服の襟章のデザインが、1997年の返還まで使われていたもので、ジャニタさん的には大変懐かしく感じられるとのこと。 妻役の女優は、モデル出身のリン・ホンという美人女優ですが、彼女が着るチャイナドレスにも見どころがあります。それは応援団の学ランのように高い襟。この高い襟が当時の流行で、その襟の高いチャイナドレスにカーディガンを羽織るのが最先端のおしゃれでした。妻はチャチャチャ・ダンスが好きで、イップ・マンが妻のためにダンスを習いに行くという微笑ましいシーンもあるのですが、流行りの襟やダンスから、妻はかなりモダンな人であったことがうかがえます。そしてこれは、香港人の「目新しいものや流行りものが好き」という性格を表現したものと思われます。 映画の中には食事のシーンもありますが、そこにも「あるある」が。イップ・マンが家族と囲む食卓に並んでいるのは、トマトと卵を炒めた番茄炒蛋(ファンチェチャオダン)と、蒸し魚の清蒸魚(チンチョンユィ)。どちらも香港の家庭料理の象徴と言える定番のおかずです。 「あるある」は町中にも散りばめられています。悪党に狙われた小学校を守るイップ・マンがひと休みするのは、パイナップルパンと呼ばれる菠蘿包(ポーローパーウ)の屋台。この菠蘿包も香港を代表するパンで、バターを挟んで食べるのがお約束です。残念ながらこんな屋台は、今はもう香港中どこにもないと思いますが、もしあればぜひ行ってみたい素朴で素敵な雰囲気です。 この屋台周辺の町並みも、趣があって目が離せません。ジャニタさんによると、石畳の坂道の両側に様々な店が並ぶ様子は、香港島の中環(セントラル)にある石板街(ポッティンガーストリート)のような雰囲気だとか。ただ、道の感じは似ているけれど、映画のような古い建物の商店が並んでいる場所はないらしいので、そっくりに再現したセットみたいです。こうした石畳の場所は昔は他にもあったので、その場所が石板街であったかどうかは断定できない、とのこと。ただ、イップ・マンの実際の武館はこの石板街に存在したようです。 では、小学校はどこにあったでしょう。映像に映る小学校付近の石段には「康和里」と刻まれています。九龍半島側の尖沙咀(チムサーチョイ)の地下鉄の出口表示には、この名前が表記されていますが、現在はその地名はなくなってしまったようで見つかりませんでした。また、小学校には「香港」「九龍」と書かれているようなので、石板街ではなく尖沙咀界隈だったのかもしれません。もしそうだとしたら、このあたりで坂がある天文台あたりだったのかもしれません。
ちなみに、映画の時代にはまだ尖沙咀駅はありませんでした。香港の地下鉄の開業は1979年。もし小学校が尖沙咀で、イップ・マンの住まいもその近所で、玄関にある紙袋が泰昌餅家のものであったとしたら、彼は1888年から運行しているスターフェリーに乗って香港島の武館に通い、フェリーの乗り場近くの泰昌餅家で、家族のために流行りの蛋撻を買って帰っていた、ということなのでしょう。 食べ物ではほかにスープが登場します。スープは香港のソウルフード。香港の料理と言えば飲茶のシュウマイやチャーシューを思い浮かべる人も多いでしょうが、じつは「香港人がもっとも大切にしている料理はスープだ」と言っても過言ではありません。小学校を見守るイップ・マンたちに、近所の主婦たちがスープを差し入れます。イップ・マンの妻が夫のために用意する夜食もスープ。香港人は健康には身体を温める食事が必須と考えていて、胃に優しくて栄養が取れる温かいスープを普段から愛してやまないのです。 ガンに侵された妻が入院すると、イップ・マンは自らスープを作り、ポットに入れて毎日病院に持参して妻に飲ませます。これは補湯(ポータン)と呼ばれる漢方スープだと思われます。中国の伝統医療の知識を持つ中医に処方してもらった漢方素材と鶏肉などを、壺型の湯煲(タンボー)という土鍋で煮込んで作ります。大きな病院で治療を受けながら中医にも掛かるというのは香港では常識で、「体調を崩したら漢方スープ」と考えるのはとても香港人らしい発想です。 香港人の気質としてよく語られるのは、「男はもれなく恐妻家」という話。香港では女性が強いので、男は職場では上司に気を使い、家では妻に気を使うのだそう。妻と買い物に出かけたら荷物を持ち、飲茶に行ったときには料理を取り分けてお茶を淹れるのは夫の役目。カンフーの達人であるイップ・マンが、妻に「早く電気を消して」と命令されるシーンも、こうした香港人の夫婦関係を的確に表していて笑えます。 香港に詳しい人が観れば、もっとたくさんの「あるある」が見つかる事でしょう。監督もプロデューサーも香港人だから、昔の香港を忠実に再現できるのも当然かもしれませんが、とはいえここまで香港らしさにこだわり抜いた映画は、このシリーズくらいではないかと思います。そういった意味では、懐かしさに溢れた香港版の『ALWAYS三丁目の夕日』という感じでもあります。
でも、こうしたディテールへのこだわりは、将来への強い危機感を抱えている香港の人々の気持ちの表れなのかも、とも思えます。香港は大陸からの投資で家賃が高騰し、老舗の移転や廃業が相次いでいます。先日の選挙では親中派の行政長官が当選し、一国二制度の期限である2047年まであと30年と言いながら、実質的な中国化は着実に進んでいます。香港の人々は、自由に生きるために生まれ故郷を捨てるか、なすがまま中国に飲み込まれるか、はたまた雨傘革命のような抵抗を続けるか、という厳しい選択を迫られています。 映画では、イップ・マンと親しい刑事が西洋人の上司に威張り散らされ、歯がゆい思いをするシーンがあります。これもイギリスに統治されて不当に扱われた過去の屈辱を描いただけでなく、香港が香港でなくなることへの不安や、再び強大な力で踏みにじられることへの不満を比喩しているのかも…。 オールド香港といえば建物の壁や柱、床などを細かなタイルで仕上げるのが特徴で、いまも地下鉄では新設の駅にもタイル装飾が使われています。このタイル、微妙に色のトーンが異なるものが組み合わされていることが多く、モザイク画のような美しいニュアンスになっているのですが、それにはこんな逸話があります。戦後の物のなかった時代に、似た色のタイルを寄せ集めて使ったために、色ムラが生じてしまったのだとか。 大切な思い出を残すため、タイル装飾のように愛しい香港のかけらを詰め込んだのではないか。何度も観るうちに、そんな切なさが感じられて、泣けてしまいました。この映画、間違いなく香港の文化を伝えるための貴重な資料となる名作です。風情ある香港がいつまでも続きますように。
監督:ウィルソン・イップ text/キヌガサマサヨシ(夏休み計画) |