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あー、思い出した。 第一回目の教室で、Nikiは、ご近所のよしみで車に乗せて連れて行ってくれるって、約束したんだ。ところが、待てど暮らせど約束の場所にNikiは来なくて。どうしたのかと思ったら、彼女、すっかり忘れて一人で根岸に行ってたの。
あの頃、Nikiはまだ立ち上げたばかりの教室と、生まれたばかりの赤ちゃんと、自分の仕事探しにかなりテンパッた状態だったんだと思う。事情を知らない私としては、「大丈夫なのかなあ、この教室」なんて不安になったりもしたんだけど。 その後、仕切直しで最初に参加したのが、忘れもしないリンダのシナボン教室だった。「お子様連れOK、託児します」という最初の頃の設定に甘えて、当時4歳だった息子の公園友達と、大挙してリンダ宅に押しかけたのだった。今にして思えば、暴挙だったとしか言いようがないなぁ。まだ赤ちゃんだったリンダの一人息子、キゲンも突然のギャング軍団にびっくり。
考えてみたら、Nikiとナカキタ、お互いに失敗で始まった出会いだったんだなあ。 今、思い出すと、本当にいろんなことがあった。いいことばかりじゃない。親しくなるにつれ、困り、悩み、時にぶち切れるNikiを身近で見たりもした。最初のうちは、Nikiも生徒も先生も、参加する人全員が手探りで進めていった教室だった。その中で、ハプニングもたくさん生まれた。一度参加して、それっきりになった生徒さんもいるし、やってみて、「やっぱり向いてない」と去っていった先生もいた。ここには書けないトラブルも、実はいっぱいあった。 でも、そういうことにも増して、参加する生徒さんたちと先生たちのお料理を通した交流は、たくさんの果実を実らせてくれた。 そこへ突然降ってきた、ニューヨーク同時多発テロのニュース。 あの後、海の向こうでは大きな戦争が始まり、そして終わった。 さて、教室は、根岸から山手、本牧へ場所を移した。そこに至るまでには、Nikiの言い表せないほどの努力があったのだけど、それが実った今、わざわざ言うことではないのかもしれない。移動に伴って、先生も国際色豊かになってきた。これまでアメリカ一辺倒だったメニューも、世界中の料理自慢の主婦たちが教える、エスニック家庭料理という様相になり、バラエティに富んだものとなった。 紆余曲折あったNikiの教室は、二年が過ぎたあたりでようやく一つの形ができあがったのだ。その最初からずっと参加することができて、とても幸せだったと思う。特に、このエッセーを書かせてもらうようになってからは、料理を習うだけでなく、それぞれの先生のバックボーンや、メニューに込められた気持ち、日本に対する思いなどを、自分なりに感じ取るようになった。 先生たちは、みな、それぞれ故郷を離れて横浜に来た。ほとんどが、自分の意志ではなく、ご主人の仕事の都合でたまたまここで暮らすようになった普通の家庭の奥さんたちだ。それは仮の住まいに過ぎない。だけど、仮の住まいなら仮の住まいとして、この場所での出会いを大切に、日々を前向きに生きている。そのパワーが、一つひとつのレシピの中からも伺えるように思った。 ナカキタも転勤族の妻だ。夫とともに3年ごとに各地を転々としながら、こうしてモノを書く仕事を続けている。横浜は、そんな私が人生のほんの三年間を過ごした、仮の住まいだった。それは先生たちと同じ立場だ。だけど、横浜でいろんなものをいただいた。
あ、やっぱり、「サヨナラ」は言えないな。じゃあね、また時々寄らせてもらうわ。ではみなさま、再見(なぜか中国語で)!
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エッセイストの紹介 | ||||||
中北久美子 ナカキタクミコ | ||||||
(プロフィール) 中北久美子 ナカキタクミコ 名古屋の情報雑誌月刊「KELLY」編集から編集 デスクを経てフリーに。以後、雑誌・広告・社内報・官公庁の出版物・ゴース ト・ ラジオの構成などで企画・取材・執筆を担当。結婚後、神戸、金沢、富山と拠 点を 移しながらその土地の取材物を中心にライターを継続。今後は、女性のライフ スタ イルに関する記事を書いていきたいと考えている。 現在、横浜在住。好きなものは温泉、お散歩、お茶、古い建物、犬、60年代 のR &B、70年代のブリティッシュロック、80年代のスィートレゲエ、「館」のつ く場 所(水族館・博物館etc・・・)、浮世絵、特撮ヒーロー、伝奇小説、南の海、そ して一 人息子とのおしゃべり、などなど。 「よみたい!ネット」に「横浜お散歩マニア」連載中 http://www.yomitai.net/ |